読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

    コンセプト:諸行無常の音  アウトサイドアート

    コンセプト:諸行無常の音  アウトサイドアート

     

     今日、音楽あるいは、藝術というものは習熟度で見られることが多くなってきたと考えている。美術においては抽象画から写実的な技術重視の絵ではない流れが始まっており、ピカソの「アビニョンの娘たち」からキュビズムが始まった。キュビズムルネッサンス以降の一点透視図法を否定し新たな現代美術の一歩だった。キュビズムが始まった少し後の 1910年半ばにダダイズムという活動が始まり、第一次世界大戦への抵抗、規制の概念、常識、秩序に対する否定・破壊的なものの表現である。この活動は世界中に広まった。

     

     美術・藝術以外でもこの思想の芽が出ており、特に 19世紀・20 世紀前半のドイツによって顕著であったプロイセン帝国によってドイツの統一がなされたが、近代になる前まで分散して統治されていたゲルマン民族を統一的な方向に誘導しなければいけなかった。そのため、徹底的な官僚制が敷かれ、徹底的な理性主義・法治主義を持ち、そして市民を労働・徴兵に駆り立てた。結果的にもたらされたのは、民族的寛容、宗教的無神論、市民社会の軽視、国家の進歩と土台としての勤労の義務化。どこか、ディストピアのような雰囲気を漂わせている。この時期のドイツが生み出したのは、ニーチェマルクスヒトラーといった人物である。ニーチェは「神が死んだ」と唱えのちの哲学に影響をもたらす。言うまでもなくマルクスヒトラーは 20世紀の政治・軍事・思想に多大な影響を与えた。 21世紀である今日でも、彼らが残した思想の種は残り続けている。これらの思想はある意味、資本主義化され、人間らしくなくなり、息苦しい社会が生み出してしまった亡霊なのだと考えている。日本に対する影響としては、江戸時代の日本統治は藩が行っており、その上に幕府があった。明治維新時点では日本という国家はかなりバラバラな状態であった。近代化と植民地化されない対策としてヨーロッパの各憲法を分析した結果、ドイツの当時の憲法を輸入した。その、官僚的制度は殆ど憲法改正が行われていない日本において根強く生き残っており、現在の日本の息苦しさの一つとして統治制度の影響もあるだろう。

     

     私は今の日本を見ていて、ある意味で大きな物語を失いつつ、小さい物語ができているが、見えない大きな物語にすがりついているように見える。そういった歪みの中で、対応し適応しきれず、「アウトサイド」する人が出てきているようにみえる。いわゆるネットスラングであるところの「無敵の人」は、その「アウトサイド」した人たちの一部であるであろう。私も、また、「アウトサイド」した人たちの一人なのだ。

     

     オーケストラやロックバンドといったアンサンブルは自己の個性をある程度保有しながら、コンダクター、あるいはドラム、太鼓、、それぞれのアンサンブル形式によるが、合わせるべきものに合わせていたのだ。「合わせる」ことは他人と身体的、空間的、社会的に「合わせる」ことであり、社会的動物である人間にとっては重要な行為である。特にハイコンテキストで村社会的な契約より身内内政治を重要視する日本社会にとって重要であり、日本から出現した「アウトサイド」した人間たちはそういった「合わせる」ことから落ちてしまった人ではないだろうかと考えている。明確な大きな物語――コンダクター的な存在が欠けているのではないかと考えている。コミュニケーション能力が必要だと叫ばれる昨今の日本ではそのような、「場の空気」を読めない人間は「村八分」されてしまう。そういった意味では「アウトサイド」している人間は、日本というマクロ社会の大きな物語において、必要な役割であり、「アウトサイド」している私は、もしかしたら、重要な役割をになっているのではないかと考えている。

     

     音楽・藝術の話に戻そう。ダダイズムで一つ大きな話題を読んだ作品として、レディ・メイドとしての『泉』がある。これは、マルセル・デュシャンが既成品の男性用小便器に R.Muttという署名をし、そのまま作品にしてしまったということである。これは、技術至上主義に対する反発でもあり、反藝術として、なにができるのか。この作品には全く技術はない。一つの表現としての、一つの答えだった。

     

     ダダイズムが音楽へ与えた影響であれば、ジョン・ケージが有名である。「いかなる実験も、作品が完成する前に行われると考えており、結果を予測できない行為を“実験的”と表現していた」と言っている。奏者自身は何も演奏しない4分33秒という作品を生み出した。

     

     また、前衛芸術家としてのオノ・ヨーコは前に述べたジョンケージのレッスンを受け大きな影響を受けている。カットピースなどの作品において内面の苦痛を表現している。彼女の表現方法もまた一つの答えなのだと考えている。

     

     私は、ジョン・ケージ的な実験的思想を承継しつつ、オノ・ヨーコ的な内面性の表現も行いたい。そして、今まで私が見てきた様々なもの、また今に至った思想・背景をさまざまな意味での反技術至上主義的な表現を用い表現したい。また、新たな思考に触れることによって藝術に対して、また自分自身に対しても脱構築する諸行無常的なコンセプチュアル・アート的な音楽を作っていこうと考えている。様々な思考に対してどこまで観念的な表現ができるか試して行きたい。

     

     作家性として、即興性という手法を用いる。ジョン・ケージの残したものとして即興演奏への否定というものがあるが、ジョン・ケージはリスト・ショパンへの反発であったのと同じく、時代は反復するという点で即興性を復興させたいと思っている。技術的に拘れば楽譜の演奏的な再現性がえられるが、それに反した、時間というのは二度と戻らない。そういう再現性のないものを表現しようと考えている。

     

     また、オノ・ヨーコ的な内面性を継承し、更に深化させ、「アウトサイド」した私自身の内面の空間において一回価値を完結させる。私から発せられる、音、空間的なものは、意識、無意識にかかわらず、日本的な「歪んだ空間」への表現が含まれている。その完結された価値/価値空間を外部へ発信することにおいてその空間にいるもの、聞くものは何を得られるか、何が価値があるのか、と問うという実験的・即興的要素において制作を行っていく。

     

    第三校 2014/7/9